2020年から世界中を震撼させたコロナ禍は2021年5月現在も収束の目処はつかず新たに登場した変異ウイルスが新たな脅威となって世界中を恐怖に陥し入れています。

1937年1月、旧蘭領インドシナ・ジャワ島・スラバヤ市(現在のインドネシア共和国ジャワ州スラバヤ市)に生まれた私は太平洋戦争勃発直前に母と妹3人で帰国、旧三井物産の社員であった父はオランダ・イギリスの連合国軍の捕虜となってオーストラリアに抑留され戦時中アフリカのロレンソマルケスから英国人捕虜との交換船で帰国し、戦後間もなく49歳の若さで死去しました。幸いにも、今年、私は齢84歳を迎える事が出来ました。10歳頃に入門した絵画塾での絵の勉強は1950年、父親の死を契機に中断しました。その後、紆余曲折はありましたが、現在まで絵を描き続けて来られたましたので画歴そのものは長いのです。小学校6年生の時、校内写生大会で描いた風景画が教員室で先生方の話題になったと担任の先生から聞かされましたが、私に絵の才能があるとすれば、それは母からのDNAだと思います。母は日本画を当時日本画壇の寵児であった山川秀峰に師事、画家を目指していた位ですので、デッサンなんかは実に上手かったと記憶しています。

私は、師と仰ぐ先生方にはご指導は受けましたが、残念ながら、美術専門教育を受けたわけでもないので、絵は全くの独学我流です。

私の絵画歴は略歴を織り交ぜて後述致しますが、今日迄続けて来られたのは、第一に絵を描くことが好きである事、第二に取巻く環境が良かったこと、第三に家族をはじめ良き理解者に恵まれた事だと思います。

時々、貴方は絵を描く才能があって羨ましい、浮世のストレスは絵を描くことで昇華しているのでしょうね!と言われますが、絵を描くことでストレスを発散したことは一度もありません。

私は海外旅行が大好きですですので、スケッチ旅行も兼ねて海外あちこちを旅しました。国の数だけでも45か国になります。海外旅行が度々出来た背景は20年のサラリーマン人生におさらばして独立、小規模ながら会社経営が軌道に乗ったからです。従って絵のモチーフは風景にしろ人物にしろ物語にしろ海外の物が殆んどですので、其の事もホームぺージ上で何故なのか?指摘を受けたこともありました。。

小学校、中学校、高等学校、大学、会社勤務と、何れの時代にでも絵を描く機会に恵まれたことはラッキーな事で私の人生の大きな財産でもあります。1965年創立の美術公募展、創展(創作画人協会)の第一回展に応募し入選して以来55年間毎年出品を続け、文部大臣賞、創展賞、クリチック賞等の大賞を受賞、会友、準会員、会員、理事選考委員を経て、2016年会長に就任しました。

晩年を迎えた現在、会社経営は社員諸君に続けてもらうように持ち株会社を含め4社の後継者社長を社員から任命して事業は順調に推移していますので、2016年に画廊、アートギャラリー月桂樹を開設し地元の画家や美術愛好家に利用して貰う、大袈裟に言えばメセナ運動拠点を新設致しました。以前から見れば絵を描く環境は整っていますので、これからも命続く限りより良い作品を生み出すように創作活動を続けます。

宜しく見守って頂ければ幸いです。   森  務

森 務  画歴・略歴

1937年1月19日,インドネシア・スラバヤ市生れ、父方先祖家系、和歌山、徳川紀州藩家臣、祖父、森介基(旧三井物産社員)父、森基一(慶応義塾大学卒、旧三井物産社員)母方先祖家系、姫路酒井藩家臣、祖父、和田千吉(考古学者、1985年日本遺跡遺物図鑑・復刻日本考古学文献集編纂)母,実枝子(日本画家、山川秀峰に師事、東京府立第一高等女学校卒)

1941年、太平洋戦争直前、母・妹共に帰国、名古屋市徳川町の父方祖父方に身を寄せる。名古屋市山口国民学校入学、疎開の為、瀬戸市赤津国民学校に転校。

1943年、父帰国、アフリカ、ロレンソ・マルケスに於いて英国人捕虜との交換による特赦。

1945年、敗戦、愛知県蒲郡町に転居、蒲郡小学校に転校。

1947年、太平洋画会会員楠僑に師事(10歳)

1949年、父死去、母妹弟とともに下関に転居、伯父の世話になる。

下関第2中学に転校。

1950年、母妹弟共に東京に転居、目黒第8中学校に転校、友人達と絵と詩の同好会”月桂樹会”を作る。

1952年、目黒8中卒業、東京都立青山高等学校に入学、独学で絵画制作を続ける。

1955年、青山高校卒業、早稲田大学、政治経済学部に入学、美術研究会に入部、独学を続ける。

1959年、早稲田大学卒業、東京トヨペット(株)に入社、虎ノ門営業所中古車課に配属。なべ底景気・就職難時代。

1967年、東京トヨペット絵画部創設に参加、創展創立会員、絵画部講師、新海覚雄に師事、デッサン・油彩画を学び、東京職場美術展、アンダパンダン展等に出展する。

1968年、第一回創展公募展(セントラル美術館)に応募、”半島の春30号”が入選。以来現在に至る迄連続出展、ホルベイン賞、林丘賞を受賞、会友を経て準会員となる。

1970年、新海先生死去。

1971年、東京トヨペット絵画部講師、狩野寿一に師事、デッサンの勉強を続ける。

1972年、創展会員に推挙され、会員となる。美術年鑑に収録。

1973年、第一回個展を東京海上火災マリンテラスで開催する。

トヨタ自動車販売健康保険組合、東京トヨペット等に作品を買い上げられる。

埼玉県坂戸市に転居する。

1976年、埼玉県西展出展、”バリの踊り子20号”受賞。

1977年、第10回創展記念展で”ノスタルジア100号”ホルベイン賞受賞。

1979年、造形展入選”薔薇10号。”東京トヨペット20年2か月勤務、中古車部、販売第2課長で退職(42歳)。同年7月7日、坂戸市厚川に中古自動車販売店、(株)新生オートプラザ設立、代表取締役に就任。(総勢3名で創業)

1989年、第23回創展に於いて、”悲嘆の女たち100号”会員努力賞受賞。

1991年、第25回創展に於いて、”独り100号”クリテイク賞受賞。

1996年、第2回個展開催、於レ・ボヌウ(坂戸市)*画集”月桂樹”第一号発刊。

1998年、藤田清孝・森務二人展開催、於、アートサロン羽柴(川越市)

1999年、第33回創展に於いて、”雨上がりの光の中で100号”文部大臣奨励賞受賞

2000年、創展理事、選考委員に就任

2001年、埼玉県県西地区地元、彩西展(運営委員)、鶴美展などに出展。

2012年、第3回個展開催、於、東京交通開館2Fギャラリー、*画集”月桂樹”第2号発刊。新生オートプラザを3分社化、代表取締役会長に就任。

2015年、アートギャラリー月桂樹(坂戸市)を開設、企業メセナ活動を展開。新生オートプラザ・グループ、売上高50億、社員従業員140名に成長。

2017年、創展会長に就任。新生オートプラザに於いてMBOを実施、名誉会長に就任。現在に至る。(82歳)

               

                *アートギャラリー月桂樹、坂戸市緑町5-6

                   TEL049(283)3377